社会貢献するための資格

wordpress-logo先週来のAKB48の峯岸みなみさんの一件、正直なところ何ら興味もないのですが、けじめの付け方として、そこに行き着く考え方がグロテスクだなぁとは思います。

まあ、アイドルの商品価値という意味ではあるまじきことなのでしょう。もちろんモラルとか倫理ではなく、商売上の都合ってだけですが。

だったら、いっそのことその後の処遇を「リコール選挙」で決めればいいのに。

話は変わって、たまには真面目なことも書きましょう。

先日、仕事上の繋がりで「もっと知ろう、デイジー教科書を!」というシンポジウムに出席しました。

デイジー(DAISY)とは主に視覚障害者向けの音声読み上げ電子書籍の規格です。専用機やプレイヤーソフトウェアで再生することで、全盲の人はもちろん、弱視や識字障害を持った人が、耳で聞きながら読書をするという使われ方をしています。

ただし、シンポジウムの感想は「歯車の空回り感が強いなぁ」でした。残念ながら。

現状、教科書のデイジー化は有志のボランティアによって行われています。でも、本来なら国が責任を持って遂行すべきことです。

ではなぜそのようになっていないかといえば、国からの予算が下りないから。文部科学省、そして財務省が予算付けをしようとせず、そうは言ってもデイジー教科書を必要とする児童はいるため、しかたなく有志の方々が手弁当で頑張っているという状況が続いています。

でも、そういうやり方では永続性が担保されないのですよね。中核メンバーが何らかの理由で離脱すれば、たちまち体制が崩壊しかねないわけです。それは老老介護の悲劇に似ています。支える方が力を失えば、支えられている方も生命線を断たれるという。

その意味では、社会貢献活動に身を投じるには、ある程度の余力がある人が好ましいわけです。困っている人の役に立ちたいという思いは尊く、清貧の志は崇高でも、それは根性論に近い考え方です。会社であれば、零細企業が社会貢献活動の分野に軸足を置くのは好ましいとは言えないでしょう。

トロイア発見で有名な考古学者のシュリーマンが大きな成果を上げられたのは、まず大きく財をなした上で発掘作業に臨んだからだし、ビル・ゲイツが多くの尊敬を集めるのも莫大な富を基にケタ違いの額を慈善事業に費やしているからです。ちょっと残念な気もしますが、世の中、先立つものはお金なわけで。

先の零細企業の例で言えば、たとえ経営者にその方面への思い入れがあったとしても、せめて自身がいなくても事業が順調に回り、継続的に利益を上げられるぐらいになってからでなければ、社会貢献活動に多くの資源を割いてはいけないのだと思います。剛腕のワンマン社長が病気や交通事故で離脱したら遠からず会社が空中分解なんてことでは拙いわけです。

また、福祉のような社会貢献活動の分野で利益を上げていこうと考えるのも不健全でしょう。そもそもその予算の原資は税金であり、かつかつに運営されていことが多いので、そこに軸足を置いてしまうと企業の体力が付きづらく、社員への待遇も据え置きのまま年数を重ねれば、企業としての基礎体力が損なわれていきます。

ということで、社会貢献活動にいそしむための資格は投資行動と同じで「ちょっとやそっとのことでは揺るがないだけの余力を持っているかどうか」ではないでしょうか。違う言い方をすると、社会貢献活動に重きを置くためには、先ずは「それ以外の活動を軌道に乗せるべし」だと。

最後に。上記の通り、ボランティアが身を削るようにして教科書をデイジー化しているのは本来は筋の悪い話。これを好転させる鍵は「教科書に商品価値を持たせる」しかないと思います。広く売れるようにすると。

我々は何となく「デイジー教科書は視覚障害者のもの」という先入観を持ちがちですが、デイジー教科書を健常者に使ってもらっても良いはずです。法律的な垣根がなければ可能でしょう。iPadで読み上げてくれる教科書が、子供の学習意欲や理解度の向上が見込めるというなら、進んで買い与える親御さんは多いはずなので。

それこそ健常者の児童の親御さんの5組ぐらいにデイジー教科書が売れれば、障害者にも1セットがプレゼントされ、売り上げはデイジー教科書の出版社や制作者に還元されるといった具合の循環が作れたなら、社会の歯車がガッチリ噛みあって回っていくのだろうと。相変わらずボランティアの力を借りるにしても、出版社の下で作れば必然的にクオリティも上がりますし。

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