Facebook疲れ

ここにきて私の数少ないFacebook友達が減ってきました。友達登録から外されちゃったのでしょう。先方が不意に「こいつには近況を流したくない」と思い立ったのかな。うん、確かに私はほとんどコメントや「いいね!」も返さないし、友達リストの整理の際とかにそうされても無理はないかな。

でも、なにも登録を削除せずとも今のFacebookには友達の属性を設定できるので、「Acquaintances list(知り合い一覧)」に格下げ編入(大きなニュースだけが流れるようになる)すれば事足りるはずなのですが。

ま、いいけど。私の性分は「来るものはなるべく拒んで、去るものはまったく追わない」なので。追加機能を把握して使いこなすよりも削除する方が簡単ですしね。

もちろん削除の理由は訊ねませんし、相手のウォールも見ません。Facebook上で再開する前の状態に戻るだけです。近しい人とは直接コミュニケーションを取ればいいし、逆に疎遠な人はやっぱり疎遠だと。そもそも私の場合、Facebookを始めない友人、知人の方が圧倒的多数だったりしますし、Facebookを始めるまでは知ることがなかった相手の近況や日常の出来事なんかを不意に知ってしまうつまらなさなんてのもあります。

でもなあ、人によっては落ち込むかもね。友達登録の削除はFacebookという言わば上辺のつきあいでさえ絶交されたようで。この先、中学生とか「Facebookの友達登録を外されて不登校に…」なんてことも起こりそうです。

もっとも、日本でも急速にユーザを増やしているFacebookとて、半年後、一年後はどうなっているか。ここ10年ぐらいではホームページ、blog、mixi、Twitter、どれもブームになってはしばらくして「●●疲れ」と呼ばれたりしました。なくなりはしないものの、たいていは「それなりの使い方」に落ち着くものです。Facebookもきっとそうなりますね。

差し当たり私にとってのFacebookは「情報収集のツール」。私とFacebook友達になってくれた奇特な人が流す近況は読ませてもらいますが、企業や団体のお知らせの類いを集めるのが主眼です。以前は公式Webサイトに能動的に取りに行かなければならなかった情報が勝手に届くのが便利なので。もちろん不要な情報で水増しされてもきますが、その点はTwitterと同じ。いや、メディアすべてがそうですね。

そして私の主な発信メディアはこのblog。これはもう自己満足の世界であるとともに自分に課した試練みたいなものなので今後も続けると思います。

でも、Facebookの方は「あなたがた、そうまでして人々と頻繁にコミュニケーションを取りたいの?」と思ってしまうのですよね。いや、他人の行動や価値観は否定しませんが、たぶんそのうちFacebook疲れして「たまに気が向いたときにだけアクセスしてみるだけ」みたいな人も増えて、やっぱり落ち着くべきところに落ち着くのでしょう。

Facebookで失うもの

最近、私の知人が続々とFacebookを始めています。私自身はずいぶん前にアカウントだけ取ってから長らく静観、ずっと距離を置いていたのですが、目ざとく見つけられて引き戻されました…。

まあ確かにFacebookは昔の知人やらの近況を知るなんて用途には便利ですが、それで失われるものもあるような気がしています。例えば、遠くにいる知人を訪ねる楽しみとか。

「やあ久しぶり。遠いところをよく来てくれたね」
「聞いて聞いて。最近こんなことがあったんだよ」
「知ってる。Facebookで読んだから」
「あっそう…」

何となく相手の近況が把握できて割といつでも連絡が取れるんなら、わざわざ休暇を使って会いに行くまでもないかなと。

もちろんFacebook上のやり取りは互いの交友関係も含めて皆に筒抜け、ダダ漏れなので迂闊なことはできませんし、訊きたいこと話したいことのすべてがFacebookで片づくなんてことはないので上手く使っていけばいいだけなのですが、それでも何というか「以前は知り得なかったことまで簡単に知ることができてしまうつまらなさ」みたいなものはありそうな気がしています。まあ、twitterやblog、メールだって同じようなものかもしれませんが。

それと、その気になれば実名で簡単に検索できてしまうのは情緒を損ないますよね。「もう会うことはないかも」「次はいつ話せるかわからない」なんて切ない別れはなくなって、送別会の締めくくりに「じゃ、これからはFacebookで」ってのが果たしてどうなんだか。ある種の物語は成り立たなくなりそうだし。

ちなみにGoogle Plusの方も原則実名が前提らしいのですが、「サークル」として関係を括れるらしいので、もっと目的を絞ったコミュニケーションが可能になるようです。